「甲賀ゆれ」により改易を命ぜられた甲賀衆ですが、秀吉が没したことで転機が訪れます。秀吉の死後、関ヶ原の戦いの前哨戦となる、伏見城の戦いが勃発します。東軍である家康の家臣が在城する伏見城が西軍により攻め込まれたのです。そこで、家康が甲賀衆に援軍を依頼。改易させられたとはいえ誇りを捨てなかった甲賀衆たちが、家名再興の好機として奮い立ち、300名が伏見城での戦に加担しました。交戦虚しく甲賀衆の殆どが討ち死にしてしまいますが、家康はその働きを認め、「甲賀百人組」を組織したと伝えられています。甲賀百人組ゆかりの5つの寺は、百人組の子孫たちによる伏見城籠城250年回忌の法要の場となり、今も当時の墓石や位牌が大切に守り伝えられています
