伊賀の忍びは、単なる伝説の存在ではありません。
戦国時代の史料には、彼らが実際に戦場で活躍した記録が数多く残されています。
その姿は、私たちが想像する“忍者”とは少し異なり、もっと現実的で、もっと戦場に根ざしたものでした。史料に登場する伊賀衆の実像をたどりながら、彼らがどのように戦い、どのように評価されていたのかを紐解いていきます。
史料に登場する伊賀衆 ― 戦場で名を馳せた“影の兵”
伊賀衆の活動は、複数の戦国史料に記録されています。
『多聞院日記』『享禄天文之記』『金剛峯寺文書』などには、伊賀衆が敵城へ忍び込み、放火し、夜討ちを仕掛け、城の一部を奪取する様子が生々しく描かれています。
たとえば、1541年の『多聞院日記』には、伊賀衆が山城国・笠置城へ忍び入り、放火し、建物を焼き払ったことが記されています。また、1560年の『享禄天文之記』では、伊賀衆が大和国の城攻めに参加し、“木猿”と呼ばれる者が大将として活躍したことが書かれています。
これらの記録は、伊賀衆が単なる忍びではなく、戦場で確かな成果を挙げる実戦部隊だったことを示しています。
伊賀衆の特徴 ― 地域集団としての結束と傭兵としての柔軟性
史料では「伊賀衆」と表記されることが多く、「衆」という言葉は“同じ地域の者同士の集団”を意味します。
彼らは地侍を中心とした地域共同体でありながら、戦国大名に雇われて近畿一円へ遠征する“傭兵集団”でもありました。
興味深いのは、彼らが特定の主君に固定されず、状況に応じて最も条件の良い大名に仕える柔軟性 を持っていたことです。
これは、伊賀が自治的な社会であったこと、そして地侍たちが自立した武士であったことを示しています。
伊賀衆の戦い方 ― “城取り”の専門家としての誇り
伊賀衆の最大の特徴は、短期間で城を落とす“城取り”の専門家 であったことです。
史料には、
- 夜討ち
- 放火
- 水堀越え
- 曲輪(くるわ)の奪取
など、特殊な戦法を駆使して城を攻略する様子が記されています。
『伊賀惣国一揆掟書』には、「足軽として城を取ることができた百姓には褒美を与え、侍に取り立てる」と明記されています。
これは、伊賀衆にとって“城取り”が誇りであり、出世の道でもあった
ことを示しています。 戦国大名たちも、伊賀衆を“城攻めのプロフェッショナル”として高く評価していました。
自治組織としての伊賀衆 ― 惣国一揆が支えた軍事力
伊賀衆の背景には、伊賀惣国一揆という自治組織の存在があります。侍・被官・百姓・寺院が一体となり、外敵に備える体制を整えていました。
この組織は、
- 村ごとに武者大将を選出
- 鐘を鳴らして一斉に出陣
- 長期戦では交代制
- 足軽の活躍には褒美を与える
といった、非常に合理的な軍事システムを持っていました。
この自治的な軍事力こそが、伊賀衆が強く、まとまりがあり、戦場で活躍できた理由 なのです。
伊賀衆は“戦国最強の城攻め集団”だった
史料に登場する伊賀衆の姿は、私たちが想像する“忍者”よりも、もっと現実的で、もっと戦場に根ざしたものです。
彼らは地域に根づいた地侍であり、戦国大名に雇われる傭兵であり、そして何より、城取りの専門家として誇りを持って戦った戦士たち でした。
伊賀衆の実像を知ることは、忍者の歴史を理解するうえで欠かせない視点となります。