伊賀衆の歴史を語るうえで、織田信長と豊臣兄弟の存在は欠かせません。
彼らは時に伊賀衆を利用し、時に敵対し、時に再編しながら、伊賀の社会構造を大きく揺さぶっていきました。その関係は単純な敵味方ではなく、政治情勢と戦略が複雑に絡み合う、まさに“戦国の激動”そのものでした。
信長によって深まった伊賀と甲賀の絆
信長が畿内を制圧し始めた頃、伊賀と甲賀はまだ強い結びつきを持っていました。
六角氏の勢力が衰退すると、伊賀衆と甲賀衆は彼らをかくまい、信長に対抗する姿勢を見せます。この時期、両者は“反信長勢力の最後の砦”として協力し合っていたのです。
しかし、信長の勢力が拡大するにつれ、状況は変わっていきます。
1574年、甲賀衆は信長に臣従し、伊賀との関係を断ち切りました。かつての同盟者が敵側についたことで、伊賀は孤立を深めていきます。
信長は結果的に、伊賀と甲賀の絆を強めた存在であり、同時に断ち切った存在でもあったと言えるでしょう。
第一次天正伊賀攻め ― 信雄の軽率な侵攻と伊賀衆の大勝利
1579年、信長の次男・織田信雄が南伊賀へ侵攻します。
しかし、この戦いは信雄の軽率な判断によるもので、伊賀衆は惣国一揆の規定どおりに防衛体制を敷き、得意のゲリラ戦で信雄軍を圧倒しました。
伊賀衆は地の利を活かし、
- 山中での奇襲
- 夜討ち
- 伏兵
- 地形を利用した分断戦術
などを駆使し、信雄の重臣・柘植三郎左衛門を討ち取る大勝利を収めます。
この敗北に信長は激怒し、「父が遠征しているのに戦に出向かないとは何事か」と信雄を厳しく叱責したと伝わります。
伊賀衆にとっては、自分たちの土地を守り抜いた誇りの戦いでした。
第二次天正伊賀攻め ― 信長の本格的な制圧
信雄の失態から2年後、1581年。
信長はついに本格的な伊賀制圧に乗り出します。これが「第二次天正伊賀攻め」です。
この戦いには、
- 甲賀口から甲賀衆
- 他三方面から織田軍の大軍
が一斉に侵攻し、伊賀は四方から包囲されました。
『多聞院日記』には、「男女老若を問わず、日々数百人が討たれた」と記されており、その凄惨さがうかがえます。
第一次のような局地戦ではなく、圧倒的な兵力差による殲滅戦であり、伊賀惣国一揆は壊滅的な打撃を受けました。
伊賀の寺社は焼かれ、多くの人々が命を落とし、自治組織は事実上崩壊します。
秀吉・秀長による再編 ― “無足人”への転換
信長亡き後、伊賀の再編を担ったのは豊臣秀吉とその弟・秀長でした。
秀吉は伊賀衆に対し、
- 城破りの命令
- 武装解除(侍払)
- 人質の提出
などを厳しく求めますが、秀長の助言もあり、次第に柔軟な政策へと転換していきます。
最終的に伊賀衆は、苗字帯刀を許され、平時は農業、戦時は軍役を担う“無足人”
として再編されました。
これは、完全な武士身分ではないものの、伊賀衆の技術と誇りを残すための妥協策でもありました。
秀長の存在がなければ、伊賀は大和国のように武士が完全に追放されていた可能性もあります。
伊賀衆は“信長に抗い、秀吉に再編された”
伊賀衆と信長・豊臣兄弟の関係は、単なる敵対や服属では語りきれません。
- 信長は伊賀を脅威と見なし、徹底的に制圧した
- 信雄の失策が伊賀衆の誇りを際立たせた
- 秀吉は伊賀を再編し、無足人として生き残らせた
- 秀長は伊賀衆に寄り添い、混乱を最小限に抑えた
こうした複雑な関係の中で、伊賀衆は生き残り、その技術と精神は後世へと受け継がれていきます。
伊賀衆の歴史は、戦国の大名たちとの緊張と協力の中で形づくられた物語なのです。