織田信長が伊賀を焼き尽くし、このまま勢力を広げるかと思われた1582(天正10)年、本能寺の変が起こります。信長の側近だった明智光秀が謀反を起こし、京都の本能寺に滞在する信長を襲撃。信長は寺に火を放ち、自害したとされています。
本能寺の変の数日前、徳川家康は信長の招待により大坂・堺の見物に出かけており、堺で信長の死を知らされます。訃報を知った家康は、光秀討伐の準備のために、本国である三河に戻ることを決断しました。堺から三河に戻るには、伊賀を越えて伊勢に入り、そこから船で渡るのが最短ルートです。しかし、お供はわずか30名程度。信長が亡くなったことから治安の悪化が予想され、特に、天正伊賀の乱で深手を追った伊賀を少人数で通行することは、大きな危険がつきまといます。そこで、家康のお供として帯同していた伊賀に縁をもつ服部半蔵が、伊賀衆や甲賀衆を集め、家康一行を無事に伊勢まで送り届けたのです。通行したルートは諸説ありますが、道中の護衛を任された多羅尾氏の屋敷跡をはじめ、伊賀の徳永寺や甲賀の小川城跡など、家康が立ち寄ったとされる史跡が今も残されています。
