戦国時代の伊賀を語るとき、必ず中心に浮かび上がる存在がある。それが「伊賀衆」だ。
後世の忍者像の源流ともいえる彼らは、黒装束で闇に消える超人的な存在ではなく、山に囲まれた土地で育ち、地域を守るために武力を磨いた“地侍の共同体”だった。
伊賀国は、三重県の内陸に位置する山間の盆地である。四方を山に囲まれ、谷や峠が複雑に入り組むこの地形は、外部勢力の侵入を容易には許さなかった。こうした環境の中で、地域の地侍たちは自然と武力を持ち、村々を守るために協力し合うようになる。
彼らは血縁や地縁を基盤に結束し、やがて「伊賀衆」と呼ばれるようになった。特定の大名に仕える家臣団とは異なり、伊賀衆は地域の自治を守るために存在した“独立した軍事集団”だったのである。
伊賀衆の強さの背景には、「伊賀惣国一揆」と呼ばれる自治組織の存在があった。これは、伊賀国全体を守るために侍・百姓・寺院が協力し合う仕組みで、戦国時代の自治制度としては非常に高度なものだった。
敵が侵入すれば村々で鐘が鳴り、十七歳から五十歳までの者が武器を手に集まる。寺院は祈祷を行い、若い僧は戦に参加する。他国に内通した者は厳罰に処され、地域全体で外敵に立ち向かう体制が整えられていた。
この“地域ぐるみの防衛体制”こそが、伊賀衆の強さの根源だった。
伊賀衆の戦い方は、一般的な武士の戦い方とは大きく異なっていた。彼らは長期の籠城戦を避け、短期間で城を落とすための特殊戦法に特化していた。
夜の闇に紛れて敵陣に忍び寄り、放火や夜討を仕掛ける。水堀を越えて城内に侵入し、曲輪を“居取る”(占拠する)。地形を熟知した彼らは、山道や谷を利用して敵の裏をかき、奇襲を成功させることに長けていた。
こうした戦法は、戦国大名にとって非常に魅力的であり、伊賀衆はしばしば傭兵として雇われた。『伊賀惣国一揆掟書』には、「足軽として城を取ることができた百姓には褒美を与え、侍に取り立てる」と記されている。
これは、伊賀衆自身が“城取りの専門家”であることを誇りにしていた証でもある。彼らにとって城を落とすことは、単なる戦功ではなく、自らの技術と誇りを示す場でもあった。
戦国大名が伊賀衆を重用した理由は明確だ。
第一に、彼らは山地や谷を自在に移動し、敵の裏をかく機動力を持っていた。
第二に、潜入・偵察・攪乱といった情報収集能力に優れ、戦場での判断材料を提供できた。
そして第三に、短期間で城を落とす「城取り」の技術は、戦国大名にとって非常に魅力的だった。
さらに、伊賀衆は特定の大名に縛られず、条件次第で柔軟に動く“傭兵的存在”だったため、必要な時に即戦力として雇うことができた。
こうした理由から、伊賀衆は織田信長・松永久秀・六角氏・筒井氏など、多くの大名のもとで活躍している。彼らは戦国の混乱の中で、時に敵となり、時に味方となりながら、自らの技術と誇りを武器に生き抜いていった。
伊賀衆は、後世の忍者像とは異なるものの、その戦い方・情報収集能力・地形を活かした戦術は、まさに“忍者の原型”と言える存在だ。地域の地侍が結束した軍事共同体であり、城取りの専門家であり、惣国一揆による自治組織の担い手であり、大名に重用された傭兵的集団でもあった。
彼らの姿を知ることは、忍者の歴史を理解するうえで欠かせない。そして、この伊賀衆の存在こそが、後に伊賀流忍者として語られる文化の土台となっていくのである。
