伊賀衆の歴史を語るとき、織田信長と豊臣兄弟の存在は避けて通れません。
彼らは伊賀衆にとって脅威であり、時に協力者であり、そして伊賀の社会構造を大きく変える存在でもありました。
その関係は単純な敵味方ではなく、戦国の政治情勢が複雑に絡み合う、まさに“動く歴史”そのものでした。
信長が畿内を制圧し始めた頃、伊賀と甲賀はまだ強い結びつきを持っていました。六角氏の勢力が衰えると、伊賀衆と甲賀衆は彼らをかくまい、信長に対抗する姿勢を見せます。
この時期、両者は“反信長勢力の最後の砦”として協力し合っていました。しかし、信長の勢力が拡大するにつれ、甲賀衆は生き残りのために信長へ臣従し、伊賀との関係を断ち切ります。
かつての同盟者が敵側についたことで、伊賀は孤立を深めていきました。信長は結果的に、伊賀と甲賀の絆を強めた存在であり、同時に断ち切った存在でもあったと言えるでしょう。
1579年、信長の次男・織田信雄が南伊賀へ侵攻します。
しかし、この第一次天正伊賀攻めは信雄の軽率な判断によるもので、伊賀衆は惣国一揆の規定どおりに防衛体制を敷き、得意のゲリラ戦で信雄軍を圧倒しました。
山中での奇襲、夜討ち、伏兵、地形を利用した分断戦術――。
伊賀衆は地の利を最大限に活かし、信雄の重臣・柘植三郎左衛門を討ち取る大勝利を収めます。この敗北に信長は激怒し、信雄を厳しく叱責したと伝わります。
伊賀衆にとっては、自分たちの土地を守り抜いた誇りの戦いでした。
しかし、信長はこの敗北を見過ごしませんでした。
1581年、信長はついに本格的な伊賀制圧に乗り出します。
これが第二次天正伊賀攻めです。
甲賀口からはかつての同盟者であった甲賀衆が参戦し、他三方面からも織田軍の大軍が侵攻しました。伊賀は四方から包囲され、圧倒的な兵力差の前に抗う術はありませんでした。
『多聞院日記』には、「男女老若を問わず、日々数百人が討たれた」と記されており、その凄惨さがうかがえます。
第一次のような局地戦ではなく、これは殲滅戦でした。伊賀惣国一揆は壊滅的な打撃を受け、寺社は焼かれ、多くの人々が命を落とし、自治組織は事実上崩壊します。
信長亡き後、伊賀の再編を担ったのは豊臣秀吉とその弟・秀長でした。秀吉は伊賀衆に対し、城破りの命令や武装解除、人質の提出などを厳しく求めます。
しかし、秀長の助言もあり、次第に柔軟な政策へと転換していきます。最終的に伊賀衆は、苗字帯刀を許され、平時は農業、戦時は軍役を担う“無足人”として再編されました。
これは完全な武士身分ではないものの、伊賀衆の技術と誇りを残すための妥協策でもありました。
秀長の存在がなければ、伊賀は大和国のように武士が完全に追放されていた可能性もあります。秀長は伊賀衆の気質や土地の事情を理解し、彼らが生き残る道を整えた人物でもありました。
こうして伊賀衆は、
信長に抗い、秀吉に再編され、秀長に救われた――
そんな複雑な歴史の中を生き抜いていきました。
伊賀衆の歴史は、戦国の大名たちとの緊張と協力の中で形づくられた物語です。
その歩みを知ることで、伊賀という土地がどれほど独自の力を持ち、どれほど多くの人々に影響を与えてきたのかが見えてきます。
写真:藤堂家所縁御殿の御門藤堂高虎が豊臣秀吉より拝領
