伊賀の歴史を語るとき、藤堂高虎の存在は欠かせません。彼は単なる城主ではなく、伊賀の町の姿そのものを形づくった人物でした。
高虎が伊賀に入ったのは1608年。徳川家康の信任を受け、伊予国今治から伊賀へと転封されたことが始まりでした。
当時の伊賀は、信長による伊賀攻めや豊臣政権下の再編を経て、まだ安定した統治が整っていない状況にありました。家康は大坂の豊臣家を包囲するための戦略拠点として、伊賀を重視していました。
その任を託されたのが、築城の名手として知られる藤堂高虎だったのです。
高虎は伊賀に入ると、まず上野城の大規模な改修に着手します。それまでの城は、筒井定次が築いた三層天守を持つものでしたが、高虎は本丸を西側へ拡張し、城の防御力を飛躍的に高めました。
特に西側に築かれた高石垣は圧巻で、かつては「日本一の高さ」と称され、現在でも日本有数の規模を誇ります。石垣の高さは最大で約30メートルに達し、外敵の侵入を許さない堅固な構造となっていました。
しかし、建造中だった五層天守は1612年の台風で倒壊し、その後再建されることはありませんでした。それでも上野城は、伊賀10万石と大和・山城5万石を治める藤堂藩の中心として機能し続け、城代家老が置かれる重要な城となりました。
高虎の仕事は城づくりだけではありません。彼は城下町の整備にも力を注ぎました。上野城の南側には「三筋町」と呼ばれる商人の町を整備し、周辺の農村から商業機能を集めました。
これは、かつて秀長が大和郡山で導入した「箱本制度」を参考にしたものと考えられています。商人たちは特権を与えられ、町は活気を帯び、伊賀の経済は大きく発展していきました。
城下町は碁盤目状に整備され、武家屋敷、寺町、町人地がバランスよく配置されました。特に興味深いのは、町の中心部に「忍町(しのびちょう)」と呼ばれる地区があったことです。
ここには、かつての伊賀衆の末裔たちが暮らし、伊賀の歴史と文化が息づいていました。
また、高虎は文化面でも伊賀に深い足跡を残しています。
上野天神宮の再建に関わり、藩主の菩提寺である上行寺を整備し、祈願所として松本院を移転させるなど、城下町の精神的な基盤を整えました。
愛宕神社には高虎の名が記された棟札が残り、彼の存在が今も町の随所に刻まれています。
藤堂高虎は、伊賀の地を単なる軍事拠点としてではなく、
人が暮らし、文化が育ち、歴史が積み重なる“町”として再生させた人物 でした。
彼の築いた城と町並みは、400年以上経った今も伊賀上野の中心として息づいています。
伊賀上野城を訪れると、石垣の迫力だけでなく、高虎が描いた城下町の構想や、そこに生きた人々の営みが静かに語りかけてくるようです。
伊賀の歴史を歩くとき、高虎の存在は常にその背後にあり、彼が残した“町づくりの哲学”は、今も伊賀の風景の中に生き続けています。
写真:前田呉耕画高虎像上野城蔵
