私たちが思い浮かべる忍者といえば、黒装束に身を包み、手裏剣を操り、闇に紛れて活躍する超人的な存在かもしれません。しかし、こうしたイメージの多くは、江戸時代の読み物や昭和の忍者ブームによって形づくられたものです。
では、戦国時代に実在した「忍び」とは、どのような人々だったのでしょうか。
歴史資料を紐解くと、忍者の本質は派手な戦闘ではなく、情報を扱う実務者としての姿が浮かび上がります。忍者という言葉が一般化したのは昭和以降で、戦国時代には「乱波(らっぱ)」「透波(すっぱ)」「草(くさ)」「かまり」など、地域によって異なる呼称が使われていました。いずれも、敵地に潜入し、情報を集め、時には放火や夜討といった特殊作戦を担う者たちを指しています。
江戸時代の百科事典『武家名目抄』には、忍びについて「間者・諜者と同じ意味であり、敵地に潜入して情報を探る者」と記されています。出自はさまざまで、庶民や足軽、野武士などが召し抱えられることもありました。特に伊賀や甲賀の地侍は、地形を熟知し、戦場での働きが優れていたことから、大名たちに高く評価されていたようです。
戦国末期に編纂された軍学書『軍法侍用集』には、忍びの重要性がさらに明確に示されています。「大名はいかに軍略に優れていても、敵の状況や地形を知らなければ戦は成り立たない」と記され、忍びは軍事行動の前提となる情報を集める存在として欠かせない役割を担っていました。
忍びに求められた資質も興味深いものです。
必要とされたのは、身体能力よりもむしろ「智(知恵)」「覚(記憶力)」「口(話術)」といった、情報を扱う者としての能力でした。変装して敵地に入り込み、人々と自然に会話し、状況を読み取り、正確に報告する――
忍びとは、まさに高度なコミュニケーション能力と観察力を備えた“情報のプロフェッショナル”だったのです。
一方で、現代で有名な忍者像の多くは後世の創作です。風魔小太郎の怪物的な描写や、上杉謙信の「軒猿」、武田信玄の「歩き巫女」などは、史料的な裏付けが乏しいものが多く、物語として膨らませられた部分が大きいと考えられています。
しかし、北条氏の「風間」や武田氏の「地下かまり」など、実在が確認できる忍びの集団も確かに存在しました。
こうした史実を踏まえると、忍者とは決して超人的な存在ではなく、地域に根ざし、戦国の混乱を生き抜くために磨かれた技術を持つ人々だったことがわかります。彼らは、自然と共に生き、地形を読み、情報を操り、時に命を賭して主君に尽くした――まさに「生存と情報の技術者」と呼ぶべき存在でした。
現代の忍者像は、江戸時代の娯楽や昭和の大衆文化によって華やかに彩られましたが、その根底には、戦国の世を生きた“リアル忍び”の姿があります。
このページでは、その実像に迫り、忍者という存在を歴史の中に正しく位置づけていきます。
