戦国時代の伊賀を語るとき、必ず中心に浮かび上がるのが「天正伊賀の乱」である。
この戦いは、単なる一地方の反乱ではなかった。伊賀衆が長年守り続けてきた自治と独立性が、天下統一を目前にした織田信長の中央集権化政策と真正面からぶつかった、歴史の大きな節目だった。
伊賀は山に囲まれた盆地で、外部勢力が容易に踏み込めない土地柄だった。その地で育った地侍たちは、地形を熟知し、村々を守るために自然と武力を磨き、惣国一揆という自治組織を築き上げていた。彼らは特定の大名に従属するのではなく、地域のために戦う独立した存在だった。
この“自治の精神”こそが、伊賀衆の誇りであり、強さの源でもあった。
しかし、信長にとって伊賀の独立性は看過できないものだった。近畿の治安を掌握し、天下統一を進めるうえで、伊賀のような“中央の命令が届かない地域”は障害となる。こうして、両者の衝突は避けられないものとなっていく。
最初の火種は、天正六年の丸山合戦である。
信長の次男・織田信雄が伊賀南部の丸山城を修築し始めたとき、伊賀衆はその意図を敏感に察知した。これは明らかに伊賀侵攻の準備であり、黙って見過ごすわけにはいかない。
伊賀衆は無量寿福寺に集まり、奇襲を決断した。十月二十五日、白昼堂々、伊賀衆は丸山城を急襲し、信雄の重臣・滝川雄利の軍勢を撃退した。この勝利は伊賀衆の士気を大いに高めたが、同時に信長側の怒りを買うことになる。丸山合戦は、後に続く大規模な戦いの前触れにすぎなかった。
翌年、信雄は父に相談することなく独断で伊賀攻めを決行した。阿波口・馬野口・伊勢地口の三方面から約一万の軍勢が伊賀へ侵攻する。しかし、伊賀衆は地形を熟知したゲリラ戦で応戦した。
山道を利用した奇襲、夜討、待ち伏せ――。
伊賀衆の戦い方は、信雄軍の想定をはるかに超えていた。特に鬼瘤峠では激戦が繰り広げられ、伊賀出身の重臣・柘植保重が討ち死にする。信雄にとっては痛恨の損失であり、敗走した信雄は信長から厳しく叱責されたという。
第一次伊賀攻めは、伊賀衆の勝利に終わった。
だが、信長がこの敗北を黙って見過ごすはずがなかった。二年後、ついに信長は本格的な伊賀征伐に乗り出す。
総大将は信雄。
甲賀口・信楽口・加太口・大和口など六方面から、約二万人の大軍が伊賀へ侵入した。伊賀北部では比自山城・平楽寺・壬生野城などで激しい戦いが起こり、比自山城では女性や子どもまでもが石や瓦を投げて応戦したという記録が残る。
伊賀衆の必死の抵抗は、まさに地域全体の総力戦だった。
しかし、圧倒的な兵力差は覆せなかった。伊賀衆は次々と拠点を失い、最後の砦・柏原城に約千六百人が籠城する。信雄は総攻撃を仕掛けるが、城の防御は固く、容易には落ちない。そこで信雄は兵糧攻めに転じ、伊賀衆は徐々に追い詰められていく。
最終的に、大和国の猿楽師・大倉五郎次が仲介に入り、柏原城は開城した。伊賀国は壊滅的な被害を受け、寺社や村々は焼き払われ、多くの人々が命を落とした。第二次天正伊賀の乱は、伊賀衆にとって最大の悲劇となった。
しかし、伊賀衆の物語はここで終わらない。
翌年、本能寺の変が起こり、信長が明智光秀に討たれる。この知らせは伊賀にも届き、各地で旧伊賀衆が蜂起した。永田城や柘植城など、織田方の城を攻撃し、一時的に勢力を回復する。だが、これは織田家の混乱に乗じた局地的な反乱であり、長期的な支配回復には至らなかった。
伊賀衆の自治は、もはや戦国の大きな流れの中で維持できるものではなかった。
天正伊賀の乱を知るうえで重要な史料はいくつかある。信長の側近・太田牛一による『信長公記』は信頼度が高く、『勢州軍記』は客観的な記述が多い。信雄側近の覚書『伊賀の国にての巻』も一次史料に近い価値を持つ。
一方、百年後に書かれた『伊乱記』は伝承色が強いが、地元の人々が語り継いだ記憶を伝える貴重な資料でもある。
天正伊賀の乱によって、伊賀の自治は崩壊し、地域の武士層は壊滅的な打撃を受けた。しかし、伊賀衆の技術と精神は消えなかった。その後、豊臣秀吉の兵農分離政策によって、伊賀の武士たちは「無足人」として再編され、江戸時代には伊賀者として諸藩に仕え、情報収集や警護の任務を担った。
伊賀衆の戦い方や技術は忍術書『萬川集海』などに体系化され、“忍者文化”として後世に受け継がれていく。 天正伊賀の乱は、伊賀衆にとって大きな悲劇であった。
しかし、その抵抗と生き残りの歴史が、今日の「忍者」のイメージを形づくる礎となったのである。
