本能寺の変が起こった天正十年六月二日、戦国の空気は一瞬にして凍りついた。
織田信長が明智光秀に討たれたという衝撃の知らせは、畿内にいた武将たちの心を揺さぶり、誰もが次に何が起こるのかを予測できずにいた。その中に、堺で茶会を楽しんでいた徳川家康もいた。
信長の庇護のもとで安全に滞在していた家康は、一転して命の危険にさらされることになる。信長の死によって畿内は無政府状態となり、敵味方の区別もつかない混乱の中を、家康はわずかな供回りとともに三河へ帰還しなければならなかった。
家康一行はまず堺を離れ、京へ向かう途中で信長の死を知る。その瞬間、家康は進路を変え、山城から近江へ抜ける道を選んだ。しかし、近江の道も安全とは言えない。
そこで家康が頼ったのが、甲賀と伊賀の山中を抜ける険しい道だった。この道は、地元の者でなければ迷うほど複雑で、敵が追ってきても容易に追跡できない。家康はこの“山の道”に活路を見出したのである。
六月三日の夜、家康は甲賀の小川城に身を寄せた。
城主の多羅尾光俊は家康を温かく迎え、干し柿と新茶を振る舞ったという。この一夜の休息は、翌日の過酷な行程に備えるための貴重な時間だった。そして翌朝、家康一行は伊賀へ向けて出発する。
ここからが、後に「神君伊賀越え」と呼ばれる逃避行の核心部分である。
伊賀へ入る道にはいくつかの説があるが、最も信頼されているのは、家康の家臣・石川忠総が残した聞き書きである。それによれば、家康は甲賀の小川館を出て、神山から桜峠を越え、丸柱を経て伊賀の柘植へ向かったという。この道は険しい山道で、馬を降りて歩かなければならない場所も多かった。しかし、敵に見つかる危険を避けるには最適の道だった。
伊賀の地に入ると、家康はさらに緊張を強めた。わずか一年前、伊賀は信長の大軍によって壊滅的な被害を受けていた。その信長の家臣である家康が伊賀を通ることは、決して歓迎される状況ではなかった。
伊賀の人々が家康を助けたという伝承もあるが、史料的には慎重に扱うべきである。伊賀の人々は信長の侵攻で深い傷を負っており、家康に対して複雑な感情を抱いていたはずだ。
しかし、家康は伊賀を通るしかなかった。そして、この危険な道を進む中で、家康のもとには服部半蔵正成が率いる伊賀者が合流したと伝えられている。
半蔵は伊賀出身であり、地元の地理に精通していた。彼の存在は家康にとって大きな支えとなっただろう。ただし、史料によっては半蔵の活躍が後世に誇張された可能性も指摘されている。
家康一行は丸柱の徳王寺で休息をとり、正午頃には柘植に到着した。
柘植では地侍の柘植清広が家康を迎え、徳永寺で休ませたという。家康はその礼として田畑と山林を寄進し、葵の紋の使用を許したと伝えられている。この出来事は、伊賀の地侍たちが家康の帰還に協力したことを示す象徴的なエピソードとして語り継がれている。
こうして家康は伊賀を抜け、伊勢へ入り、海路で三河へ帰還することに成功した。この逃避行は、家康の人生において大きな転機となった。もしこの時、家康が伊賀の山中で命を落としていれば、後の江戸幕府の成立はなかったかもしれない。
「神君伊賀越え」は、家康の運命を左右しただけでなく、日本史そのものの流れを変えた出来事だった。
ただし、この伊賀越えには、後世に語り継がれるうちに多くの伝承が付け加えられている。たとえば、服部半蔵が狼煙を上げると二百人の伊賀者が集まったという話や、十王石仏を身代わりに峠越えさせたという逸話、あるいは伊賀の村々が家康を手厚く守ったという物語などがある。
これらは史料的な裏付けが弱く、江戸時代以降に脚色された可能性が高い。
しかし、こうした伝承が生まれた背景には、伊賀という土地が持つ“忍びの里”としてのイメージと、家康の天下取りを陰で支えたという物語性が、人々の心を強く惹きつけたことがあるのだろう。
一方で、史料に基づく現実の伊賀越えは、もっと静かで、もっと危険で、もっと切実なものだった。伊賀の人々は、わずか一年前に信長の大軍によって村々を焼かれ、多くの仲間を失っていた。その信長の家臣である家康に対して、無条件に協力したとは考えにくい。
むしろ、伊賀の人々は慎重に状況を見極め、家康が次の時代を担う可能性を感じ取ったからこそ、必要最小限の支援を行ったのではないか。
伊賀衆は、単なる“忍者”ではなく、情報に敏感で、時代の流れを読む力を持った人々だった。その判断が、家康の命を救い、後の伊賀者の地位を築くことにつながったのだ。
家康が三河へ帰還した後、彼のもとには伊賀者が仕官を求めて集まった。
その中心となったのが、服部半蔵正成である。半蔵は家康に従い、伊賀者をまとめる役目を担い、江戸幕府の成立後には「伊賀同心」として組織化されていく。伊賀者たちは江戸城の警護や情報収集を任され、幕府の治安維持に大きく貢献した。
つまり、神君伊賀越えは、家康が伊賀者を重用するきっかけとなり、伊賀の忍びが江戸時代に生き残る道を開いた出来事でもあった。
神君伊賀越えは、史実と伝承が複雑に絡み合った物語である。
史料に基づく現実の姿は、険しい山道を命がけで進む、静かで緊張に満ちた逃避行だった。一方で、後世に語られる伝承は、伊賀者が家康を守り抜いた英雄譚として描かれ、忍者のイメージを大きく形づくった。どちらも、伊賀という土地が持つ歴史の深さと、人々の記憶の力を物語っている。
家康が伊賀を越えたあの日、山々は何を見ていたのだろうか。霧に包まれた峠道を、疲れ切った家康一行が必死に歩く姿。その背後で、伊賀の人々が静かに状況を見守り、時に道を示し、時に距離を置きながら、次の時代の行方を見つめていた姿。
そのすべてが、今日の「忍者」のイメージを形づくる一部となり、伊賀の歴史をより豊かなものにしている。
神君伊賀越えは、単なる逃避行ではない。それは、戦国の混乱の中で生き残るための知恵と判断、そして伊賀という土地が持つ独自の文化と精神が交差した瞬間だった。
この物語を知ることで、私たちは忍者という存在を、より深く、より立体的に理解することができるのである。
