天正伊賀の乱によって伊賀の地は焼き尽くされ、地侍たちは多くが命を落とし、村々は荒れ果てた。
しかし、伊賀の歴史はそこで終わらなかった。むしろ、この壊滅的な敗北こそが、伊賀の人々が“忍者”として再び歴史の表舞台に姿を現すための転換点となった。その後の伊賀を語るうえで欠かせないのが、豊臣秀吉の政策と、藤堂高虎という武将の存在である。
秀吉は天下統一を進める中で、武士と農民を分離する「兵農分離」を徹底した。
戦国時代のように農民が武器を持って戦う社会を終わらせ、武士だけが軍事力を持つ体制を作るための政策である。
天正伊賀の乱で武士としての地位を失った伊賀の地侍たちは、この政策によって正式に「無足人(むそくにん)」という身分に再編されていった。
無足人とは、軍役を持たず、しかし農民とも異なる中間的な存在で、治安維持や雑務を担う役割を持っていた。伊賀の人々にとって、これは屈辱であると同時に、生き残るための道でもあった。
武士としての立場を失った伊賀の人々は、農民として暮らしながらも、戦国時代に培った技術や経験を密かに受け継いでいった。
潜入、偵察、地形の把握、火薬の扱い、夜間行動――。
これらは農業には不要だが、伊賀の人々にとっては“生きるための知恵”として残り続けた。この蓄積が、後に「伊賀者」や「忍者」へとつながっていく。
関ヶ原の戦いの後、伊賀国は藤堂高虎に与えられた。
高虎は築城の名手として知られるだけでなく、治安維持や行政改革にも優れた武将だった。彼は荒廃した伊賀の再建に取り組み、村々の復興を進める一方で、伊賀の人々が持つ特殊な技能に注目した。山中の道を熟知し、夜間行動に慣れ、情報収集に長けた伊賀の無足人たちは、治安維持の役として非常に有能だった。
高虎は彼らを組織化し、地域統治に活かした。こうして、伊賀の無足人たちは“忍びの技術を持つ治安要員”として再び社会の中で役割を得ることになる。
さらに、徳川家康が江戸幕府を開くと、伊賀者は幕府の警護や情報活動を担う「伊賀同心」として登用された。これは、神君伊賀越えで家康を助けたという伝承が後押しした面もあるが、何より伊賀の人々が持つ実際の技能が評価された結果である。
伊賀同心は江戸城の警護、火付盗賊改の補助、諸大名の監視などを担当し、幕府の治安維持に大きく貢献した。伊賀衆はもはや戦国のように城を落とす集団ではなかったが、情報と警護の専門家として、江戸の中枢で静かに力を発揮し続けた。
江戸時代には、伊賀と甲賀の忍術を体系化した『萬川集海(ばんせんしゅうかい)』が編纂され、伊賀の技術は“忍術”として整理された。これにより、伊賀の忍びの技術は文化として確立し、後世に伝わる“忍者像”の基盤となった。
武士としての誇りを失いながらも、技術と精神を受け継ぎ、時代に合わせて姿を変えながら生き残っていく。その柔軟さとしたたかさこそが、伊賀が“忍者の里”として語り継がれている。
