万川集海を解き明かす

【万川集海を読む・第2回】正心—なぜ忍者は「心の正しさ」を最初に説いたのか

    最初に説いたのは、「正心」

    忍者といえば、どんなイメージを思い浮かべるだろうか。

    暗闇に潜み、敵の屋敷に忍び込み、情報を盗む。変装し、人を欺き、時に命を奪う。そのイメージは、どこか「後ろめたさ」と隣り合わせだ。

    ところが万川集海は、その冒頭にこう記している。

    「正心」――心を正しく持て。

    忍術の教科書が、最初に説くのは技術でも武器でもなく、心の在り方だった。なぜか。そこには350年前の忍者たちが置かれた切実な事情と、現代にも通じる深い思想が隠されている。

    泰平の世に忍者は必要か

    万川集海が書かれた1676年(延宝4年)は、江戸幕府の治世が安定して久しい時代だった。関ヶ原の戦いから75年。大坂の陣からも60年以上が経過し、戦のない世が続いていた。

    戦国時代であれば、忍者の存在意義は明確だった。敵陣への潜入、情報収集、攪乱工作。忍者は戦争という需要の中で生きていた。

    しかし泰平の世では話が違う。戦がなければ、忍者は必要とされない。伊賀・甲賀の忍びの家系は、仕事を失いつつある時代に直面していた。

    そんな時代に万川集海を著した藤林左武次保武にとって、まず答えなければならない問いがあった。

    「忍術とは、そもそも正しいものなのか」

    忍術は「盗みの術」ではないのか

    この問いは、当時の人々にとって切実だった。

    忍術の本質は潜入・諜報・欺瞞にある。平たく言えば、こっそり忍び込んで情報を盗む技術だ。道徳的に問われれば、言い訳が難しい。

    保武はこの矛盾を正面から受け止めた上で、こう論じた。

    忍術は確かに「偸盗(ちゅうとう)=盗み」に近い性質を持つ。しかしその術を使う者の心が「正しい」かどうかで、忍術の意味はまったく変わる。

    私利私欲のために使えば盗人と変わらない。しかし主君のため、国のため、民のために使うなら、それは正義の行為になりうる。

    術そのものに善悪はない。心に善悪がある――これが「正心」の核心だ。

    孫子が裏付ける「間者の必要性」

    保武はこの論理を補強するために、中国の兵法書『孫子』を引用した。

    孫子はその最終章「用間篇」でこう説く。戦いに勝つためには敵の情報を知ることが何より大切であり、そのために間諜(スパイ)を使うことは、賢明な将軍が必ず行うことだと。

    つまり忍者を使うことは、古来から賢者が実践してきた正統な兵法の一部である――保武はそう位置づけた。

    孫子という誰もが認める権威ある書物を根拠に持ち出すことで、忍術の正当性を主張したのだ。

    「正心」とは何か――仁義忠信を貫くこと

    では具体的に、「正しい心」とはどういうものか。

    万川集海が示す答えは**「仁義忠信」**の四つだ。

    ――人を思いやる心。敵であっても無益な殺生をしない。 ――道理に従う心。主君への奉公を私欲で曲げない。 ――主君への誠実さ。命を受けたならば全力を尽くす。 ――約束を守る心。仲間を裏切らない。

    これは武士道の徳目とほぼ重なる。忍者を武士と同じ倫理観の上に置くことで、保武は忍術を武道の一分野として正当化しようとした。

    「正心」が先にある理由

    万川集海が全22巻の構成の中で「正心」を最初に置いたことには、明確な意図がある。

    技術をいくら磨いても、心が歪んでいれば凶器になる。逆に心が正しければ、どんな技術も正しく使える。

    これは忍術に限った話ではない。

    現代のビジネスやリーダーシップの文脈でも、技術・知識よりも先に倫理観・姿勢を問われる場面は多い。350年前の忍術書が「まず心ありき」と説いたことは、時代を超えた普遍的な教えとして読むこともできる。

    伊賀に生きた正心の思想

    「正心」という言葉は、実は忍者の故郷・伊賀と縁が深い。

    「正心」は、万川集海の冒頭に置かれたこの思想に由来する。忍術の根幹に正しい心を据えた伊賀の精神は、現代にもその名を残している。

    まとめ

    万川集海が「正心」を冒頭に置いた理由は三つある。

    一つ目は、忍術の道徳的正当性を示すため。二つ目は、孫子の権威を借りて忍術を兵法の一部と位置づけるため。三つ目は、技術より心の在り方を根本に据えるという忍術の哲学を表明するためだ。

    350年前、泰平の世で存在意義を問われた忍者たちが出した答えは「心の正しさ」だった。その答えは今も、色褪せていない。


    第3回では「将知」を取り上げる。忍者を使いこなす将のための知識とは何か。忍者は単独で動く存在ではなく、主君と一体となって機能するシステムだったことを読み解いていく。

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