万川集海を解き明かす

【万川集海を読む・第9回】孫子と万川集海ーー忍術はなぜ兵法書を引用したのか

    忍術書が引用した兵法書とは

    万川集海を読んでいると、ある名前が繰り返し登場することに気づく。

    兵法書「孫子」

    中国春秋時代の兵法家・孫武が著したとされる『孫子』は、世界最古の兵法書のひとつだ。「彼を知り己を知れば百戦殆からず」という言葉で知られるこの書物が、なぜ350年前の伊賀の忍術書に何度も引用されているのか。

    それは偶然ではない。万川集海と孫子の間には、思想の核心において深いつながりがある。そのつながりを解き明かすことで、万川集海という書物の本質がより鮮明に見えてくる。

    孫子とは何か

    まず孫子について簡単に整理しておこう。

    孫子は紀元前500年頃に著されたとされる兵法書で、全13篇から構成される。戦争における勝利の原則を論じたものだが、その核心にあるのは「いかに戦うか」よりも「いかに戦わずに勝つか」という思想だ。

    「百戦百勝は善の善なるものにあらず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」

    百回戦って百回勝つことより、戦わずして敵を屈服させることが最善だ――この言葉が孫子の本質を表している。

    この思想は忍術の本質とも深く重なる。忍者は正面から戦わない。情報を集め、敵の弱点を知り、最小の力で最大の効果を得ることを目指す。孫子と忍術は、思想の根底で同じ方向を向いていた。

    なぜ保武は孫子を引用したのか

    藤林左武次保武が孫子を引用したことには、複数の理由がある。

    第一の理由は、忍術の正当性を示すため

    第2回の正心の章で触れたように、万川集海が書かれた1676年は泰平の世だった。戦のない時代に忍術の存在意義を問われた保武は、その正当性を示す権威ある根拠を必要としていた。

    孫子は当時の武家社会で広く読まれ、高い権威を持つ書物だった。その孫子が忍者(間諜)の必要性を説いているという事実は、忍術の正当性を裏付ける最強の論拠になった。「孫子も認めている」という事実は、忍術を批判する者への強力な反論になりえたのだ。

    第二の理由は、忍術を兵法の一部として位置づけるため

    保武は忍術を単なる盗人の技術ではなく、正統な兵法の一分野として定義したかった。孫子という兵法の最高峰を引用することで、忍術が兵法の体系の中に位置することを示そうとした。

    第三の理由は、読者への説得力を高めるため

    万川集海の読者として想定されていたのは、武士や将だ。彼らにとって孫子は基礎教養にあたる書物だった。孫子の言葉を引用することで、忍術の概念を読者が既に知っている枠組みの中で説明できる。難解な新しい概念を、馴染みのある言葉で伝える――これは優れた説明の技術だ。

    用間篇――孫子が説く忍者の必要性

    孫子の最終章「用間篇(ようかんへん)」は、間諜(スパイ・忍者)の活用を論じた章だ。万川集海が最も頻繁に引用するのがこの章だ。

    用間篇はこう始まる。十万の軍を動かすには莫大な費用がかかる。しかし間諜に払う報酬を惜しんで敵の情報を得られなければ、その十万の軍は無駄になる。間諜への投資は戦争における最も費用対効果の高い支出だ、と。

    保武はこの論理を万川集海に取り込み、忍者への適切な報酬と待遇の必要性を説く根拠にした。第3回で学んだ「将知」の章で、将は忍者に正当な報酬を与えなければならないと説かれていたが、その論拠のひとつがここにある。

    孫子はさらに間諜を五種類に分類している。**郷間(きょうかん)・内間(ないかん)・反間(はんかん)・死間(しかん)・生間(せいかん)**だ。

    郷間は敵の地元の人間を使うスパイ。内間は敵の官僚・家臣を使うスパイ。反間は敵のスパイを逆に利用する二重スパイ。死間は偽情報を流すために使われ、発覚すれば死ぬ覚悟のスパイ。生間は情報を持ち帰る通常のスパイだ。

    万川集海はこの分類を参照しながら、忍者の種類と役割を整理している。孫子の理論を伊賀・甲賀の忍術の現実に合わせて再解釈したのだ。

    彼を知り、己を知る――情報戦の哲学

    孫子の中で万川集海が最も深く取り込んだ思想が、情報の重要性だ。

    「彼を知り己を知れば、百戦殆からず。彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず殆し」

    敵を知り自分を知れば必ず勝てる。敵を知らなければ勝敗は五分五分。どちらも知らなければ必ず負ける。

    万川集海における情報収集の重視は、この孫子の思想が根底にある。陽忍による情報収集、陰忍による諜報活動、将知における情報管理の徹底――これらはすべて「彼を知る」ための技術体系だ。

    忍者の任務の本質は戦闘ではなく情報だ。最高の忍者とは、戦わずに敵の全情報を把握し、将にその情報を届ける者だと万川集海は説く。孫子の「戦わずして勝つ」という理想を、忍術という形で実現しようとしたのだ。

    奇正の思想――正攻法と奇策の組み合わせ

    孫子が説く「奇正(きせい)」の思想も、万川集海に色濃く反映されている。

    奇正とは、正面から攻める「正(せい)」と、予想外の角度から攻める「奇(き)」を組み合わせる戦術思想だ。正攻法で敵の注意を引きつけながら、奇策で虚を突く。

    忍術における陽忍と陰忍の関係も、この奇正の発想に基づいている。陽忍という正面の変装で敵の警戒を緩め、陰忍という奇策で本来の目的を果たす。二つの忍術は単独では機能せず、組み合わせることで真価を発揮する。

    保武はこの孫子の奇正論を、忍術の実践的な文脈に落とし込んで説明している。抽象的な兵法理論を、具体的な忍術の技術として再解釈する保武の知性がここに光る。

    孫子にない忍術の独自性

    万川集海は孫子を引用しながらも、孫子にはない独自の要素を忍術に加えている。

    最も重要な独自性が「正心」だ。

    孫子は徹底的に合理主義的な書物で、道徳や精神論にはほとんど触れない。勝つことが目的であり、そのための手段は問わない。間諜も含めて、すべては勝利のための道具だ。

    しかし万川集海は正心という道徳的基盤を忍術の根本に置いた。技術と合理性だけでなく、仁義忠信という徳目を忍術に組み込んだ。これは孫子にはない万川集海の独自性だ。

    なぜ保武は孫子の合理主義に道徳論を加えたのか。第2回で触れた泰平の世における忍術の正当化という目的もあるが、それだけではない。忍術を単なる勝利のための手段ではなく、人間としての在り方と結びついた技術として定義しようとした保武の姿勢がここに表れている。

    現代ビジネスと孫子・万川集海

    孫子は現代のビジネス書としても広く読まれている。情報収集・競合分析・戦略立案において、孫子の思想は今も有効だとされる。

    万川集海が孫子を引用して構築した忍術の体系も、現代的な文脈で読み直すことができる。

    情報こそが競争優位の源泉であること。正面からの競合より、相手の意表を突く差別化が有効なこと。道具や技術より、使う人間の判断力と倫理観が根本にあること。これらは現代のビジネス・組織論にそのまま通じる原則だ。

    350年前の忍術書が、2500年前の兵法書を引用しながら構築した知恵は、現代においても有効性を失っていない。時代を超えて生き続ける思想には、普遍的な真実が宿っているのだろう。

    まとめ

    孫子と万川集海の関係が教えることは、知の継承と再解釈の力だ。

    保武は孫子という2000年以上前の知恵を単に引用したのではない。それを伊賀・甲賀の忍術という具体的な実践の文脈に落とし込み、さらに正心という独自の道徳的基盤を加えることで、新しい体系を作り上げた。

    古い知恵を学び、現代の文脈に合わせて再解釈し、独自の価値を加える――これは万川集海が行ったことであり、同時に私たちが万川集海から学べることでもある。


    第10回では「350年後の万川集海」を取り上げる。写本の伝来・現代の研究・そして万川集海が現代に伝えるものとは何か。シリーズの締めくくりとして、万川集海の現代的意義を改めて問い直す。

    シリーズ構成

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