世界中で知られる「忍者」という存在。
しかし、歴史の中で彼らがどのように呼ばれ、どのような役割を担っていたのかは、意外と知られていません。史料に基づいて“忍び”の実像に迫り、伊賀流忍者がどのように生まれ、どのように戦国の世を生き抜いたのかを紐解いていきます。
歴史の中の「忍び」――本来の呼び名とその姿
現代では「忍者」という言葉が一般的ですが、戦国時代の史料には「忍び」と記されています。
忍びの存在が確実に確認できるのは南北朝時代(1336〜1392)以降で、地域によって呼び名はさまざまでした。
- 乱波(らっぱ)
- 透波(すっぱ)
- 草
- 奪口(だっこう)
こうした名称は、忍びが地域ごとに異なる役割や技術を持っていたことを示しています。「忍者」という言葉が広く使われるようになったのは昭和30年代以降であり、歴史的には比較的新しい呼称です。
忍びの任務――戦国の“影の軍師”
忍びの仕事は多岐にわたります。
潜入、放火、夜討ち、待ち伏せ、破壊工作など、危険な任務を担っていました。しかし、最も重要とされたのは 「敵の情報を主君に伝えること」 でした。
戦国時代は情報が命を左右する時代。
忍びは、敵の動きや城の構造、兵力、内部の不満などを探り、主君に届ける“情報戦のプロフェッショナル”でした。
彼らは単なる戦闘員ではなく、戦の勝敗を左右する“影の軍師” として活躍していたのです。
伊賀流忍者の起源――“悪党”から受け継がれた精神
伊賀流忍者の起源にはさまざまな説がありますが、現在最も有力とされているのが 「悪党(あくとう)」起源説 です。
悪党とは、鎌倉時代を中心に荘園を舞台に活動した武装集団で、寺社勢力の弱体化とともに史料から姿を消していきました。
しかし、その精神や技術は伊賀の地侍たちに受け継がれ、後の忍びの形成につながったと考えられています。
つまり、忍びは突然生まれたのではなく、伊賀という土地の歴史・社会構造・人々の生き方が積み重なって生まれた“必然の職能” だったのです。
戦国大名に仕えた伊賀の忍び――誇り高き地侍の姿
伊賀の忍びは、戦国大名に雇われて各地へ遠征し、時には独自の判断で行動することもありました。彼らは傭兵でありながら、地侍としての誇りを持ち、高度な技術と判断力を備えた存在でした。
戦国の混乱期において、忍びは“影の実力者”として確かな存在感を放っていたのです。
忍びとは、時代を動かした影の存在
忍びとは何者か――。
それは、歴史の闇に潜みながらも、確かに時代を動かした人々のことです。
彼らは情報戦のプロであり、戦国の裏側を支えた影の軍師であり、伊賀という土地が生んだ独自の文化的存在でもありました。
忍びの実像を知ることは、伊賀の歴史を深く理解することにつながります。