織田信長

石山合戦の傭兵忍び――大坂の地で戦った忍びの実像

大阪城のある場所には、かつて「石山本願寺」が建っていました。天下布武を掲げる織田信長と、浄土真宗の武装勢力である本願寺が激突した石山合戦(1570〜1580年)。この10年に及ぶ戦いには、伊賀・甲賀の忍び衆をはじめとする「傭兵的集団」が深く関わっていました。忍者といえば特定の主君に仕える影の存在として描かれることが多いですが、彼らの実像は、現代人のイメージとはかなり異なります。


石山合戦とはどんな戦いだったか

元亀元年(1570年)9月、石山本願寺の法主・顕如は「信長が本願寺を破却しようとしている」として門徒に檄を飛ばし、摂津に陣を張っていた織田軍を急襲しました。ここから始まる石山合戦は、天正8年(1580年)に顕如が勅命講和を受け入れるまで、実に10年間続いた戦国時代最大の宗教的武装紛争です。

この戦いの特徴は、本願寺側が単独の軍事力ではなく、毛利氏の水軍・雑賀衆の鉄砲隊・各地の一向一揆などと連携した「包囲網」として機能していた点にあります。そこに伊賀・甲賀の武装集団もまた、傭兵として加わっていました。


「伊賀衆」とは何者か――傭兵集団としての実像

忍者の原像を知るうえで押さえておきたいのは、「伊賀衆」のすべてが忍者であったわけではないという点です。伊賀流忍者博物館の資料によれば、「伊賀衆」とは伊賀の城館に住む土豪・地侍たちの総称であり、そのなかに忍術を備えた者が含まれていたとみられます。

彼らの際立った特徴は、傭兵としての性格にあります。奈良興福寺の大乗院門跡・尋尊の日記には、文明14年(1482年)10月、大和国の国人間の争いに伊賀衆が出陣した記事があり、「軍勢七百人と称したが実数は三百人ほど、そのほとんどは伊賀衆であった」と記されています。また、永禄5年(1562年)12月の松永久秀の書状にも「伊賀衆が敵方の傭兵として200名ばかりやってきた」という記述が残っています。

戦国時代の伊賀は、48とも66ともいわれる小領主の土豪が割拠し、外部の大名権力に支配されることなく「惣国一揆」と呼ばれる自治体制を維持していました。肥沃とはいえない山間の土地で生活を成り立たせるために、彼らは周辺諸国へ傭兵として出かけ、戦闘・諜報・夜襲といった専門技術を売ることで糧を得ていました。これが「忍び」としての技術が研ぎ澄まされていった社会的背景です。


石山合戦における忍び衆の動向

では、石山合戦の時期、伊賀・甲賀の武装集団はどのような動きを見せていたのでしょうか。

忍者博物館に収録された年表資料によると、元亀元年(1570年)6月、六角氏が扇動した一揆勢と織田軍が「落窪」で激突した際、六角方についた伊賀衆・甲賀衆など780人が討たれたとあります。これは石山合戦の開始と同年であり、この時期の伊賀・甲賀衆が反織田勢力と行動を共にしていたことを示す記録です。

さらに元亀4年(1573年)2月、将軍・足利義昭が信長に反旗を翻した際には、伊賀・甲賀衆が「石山の砦」に籠城したという記録も残っています。「石山の砦」がいずこかについては諸説ありますが、大坂周辺での武装行動に伊賀・甲賀の兵が加わっていたことは確かです。

また、信長の長島攻めの際にも、一揆勢側に加わった伊賀・甲賀の射撃手が待ち伏せして連続射撃で織田軍を苦しめたという記録があります。これは「忍び=暗殺者」という単純なイメージを超えた、組織的戦闘集団としての姿を示しています。


雑賀衆との違いと接点

石山合戦でよく語られるもうひとつの傭兵集団が、紀伊の「雑賀衆」です。雑賀衆は荘ごとに分かれた組織で、一向宗の信仰と鉄砲技術をもとに本願寺側の主力部隊として活躍しました。その棟梁・鈴木孫一が率いる鉄砲隊は、石山合戦を通じて織田軍に多大な損害を与えています。

雑賀衆と伊賀・甲賀衆の違いは、組織の原理にあります。雑賀衆は地域共同体と一向宗信仰が結びついた集団であるのに対し、伊賀衆は宗教的紐帯よりも「金銭による契約」を軸に動く傾向が強かったとされています。伊賀流の特徴として、「雇い主が敵同士であっても、依頼があれば双方に忍者を派遣する実例があった」という指摘もあり、ある意味では現代の民間軍事会社に近い性格を持っていました。

両者は石山合戦では結果として反織田側で行動を共にすることが多かったですが、それは信仰や義理によるものではなく、利害と契約の一致によるものだったと考えた方が実態に近いでしょう。


反織田という「自衛」の論理

なぜ伊賀・甲賀の忍び衆が反織田側に動いたのでしょうか。そこには信仰とは別の、きわめて現実的な論理がありました。

織田信長は天下布武の過程で、各地の自治勢力や武装集団を徹底的に解体していきました。長年の自治を守ってきた伊賀の土豪衆にとって、「信長の天下」は自分たちの存在基盤そのものを脅かすものでした。石山合戦が膠着していた天正7年(1579年)、信長の次男・信雄が8,000の兵を率いて独断で伊賀に侵攻(第一次天正伊賀の乱)しましたが、伊賀衆は夜襲・撹乱・地形を活かした奇襲で織田軍を撃退し、重臣・柘植保重を討ち取るなど大打撃を与えました。信長が石山本願寺との抗争に縛られていたことが、この時期に伊賀への本格侵攻ができなかった理由のひとつでもあります。

天正8年(1580年)に石山本願寺が陥落し、信長の手が空いた翌天正9年(1581年)、信長は5万の大軍で伊賀に再侵攻(第二次天正伊賀の乱)します。今度は伊賀衆も抗しきれず、里は焼かれ多くの者が散り散りとなりました。石山合戦と天正伊賀の乱は、時系列として深く連動していたのです。


忍びの技術が生きた戦場

史料にみえる伊賀衆の戦術を整理すると、「忍び」としての本領が戦場でどう発揮されたかが見えてきます。天文10年(1541年)の笠置城攻撃では「今朝伊賀衆笠置城忍ヒ入テ少々坊舎放火」という記述があり、天正8年(1580年)の五条の城攻めでは「夜中に伊賀衆忍び入候処、南より水堀を越え」とあります。また「内々伊賀の者ハ、しのひ夜うち上手ニ候へは」という記述からは、戦国時代末期には「夜襲と潜入が伊賀衆の得意技」として広く認識されていたことがわかります。

火を放ち、夜陰に乗じて堀を越え、敵の撹乱に徹する。これはのちの忍術書『万川集海』(1676年)が記す「忍びの本義」とも重なります。実戦の積み重ねが、忍術の理論化へと昇華されていったと見ることもできるでしょう。


まとめ――大坂と忍びの里、その原点

石山合戦は、現在の大阪城の地を舞台に10年間繰り広げられた戦国最大の宗教紛争でした。その戦場に、伊賀・甲賀の傭兵的忍び衆は確かに存在していました。特定の主君への忠誠ではなく、自らの里を守る自衛の論理と、生計を支える傭兵の論理が重なり合いながら、彼らは戦場を渡り歩いていたのです。

その後、石山合戦の終結(1580年)と天正伊賀の乱(1581年)を経て、多くの伊賀衆は里を失い、各地へ散りました。本能寺の変(1582年)の直後に徳川家康を護衛した「神君伊賀越え」は、まさにその流れのなかで生まれた出来事です。

石山合戦という大坂の地での闘いが、伊賀・甲賀の忍び衆を「幕府の直参」へと転換させる長い歴史の起点となっていました。大坂の陣(1614〜15年)で伊賀者が徳川・豊臣両陣営に分かれて戦う構図は、この時代から続く忍びの里の「傭兵性」の帰結でもあります。次の記事では、その大坂の陣における忍び衆の動向を詳しく見ていきます。


よくある質問(FAQ)

Q. 石山本願寺はどこにあったのですか?
現在の大阪城(大阪市中央区)の地に建っていました。豊臣秀吉が本願寺の跡地に大阪城を築いたため、本願寺の遺構はほぼ残っていません。

Q. 伊賀衆は本願寺側に加担したのですか?
記録に残るかぎりでは、石山合戦の時期、伊賀・甲賀衆の多くは反織田勢力と行動を共にしていました。ただし、それは一向宗への信仰ではなく、傭兵契約と自衛の論理によるものが大きかったと考えられます。

Q. 忍びと雑賀衆はどう違うのですか?
雑賀衆は地域共同体と一向宗信仰が結びついた組織的な鉄砲集団です。伊賀・甲賀の忍び衆は宗教的紐帯よりも契約的性格が強く、諜報・夜襲・潜入を得意とする専門技術集団でした。両者は石山合戦では結果として同じ側に立つことが多かったものの、組織の原理は異なります。

Q. 石山合戦と天正伊賀の乱はどう関係していますか?
石山本願寺が陥落した翌年(1581年)に天正伊賀の乱が起きています。信長が石山合戦の対処に追われていた間、伊賀への本格侵攻は後回しにされていました。石山合戦の終結が、信長の伊賀攻めを可能にしたという意味で、両者は密接に連動しています。

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