徳川家康

関ヶ原と伊賀者・甲賀者――東西に分裂した忍びたちの選択

慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原。徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が激突したこの戦いは、約6時間で決着した。日本史上最大の合戦のひとつとして知られるこの戦場に、伊賀・甲賀の忍び衆もいた。

しかし彼らは一枚岩ではなかった。東軍についた者、西軍についた者、そしてどちらにもつかなかった者——忍びたちの「分裂」は、戦国から近世への大転換期における忍者集団の内部矛盾を映し出している。

1. 関ヶ原前夜の伊賀・甲賀

豊臣体制下での位置づけ

豊臣政権下において、伊賀衆は弟・秀長と藤堂高虎を通じて組織化されており、豊臣家への帰属意識が比較的強かった。一方、甲賀衆は近江を本拠としていたため、石田三成(近江長浜出身)との地縁的な関係を持つ者も多かった。

この複雑な帰属関係が、関ヶ原での「分裂」の遠因となった。

徳川「伊賀者」の存在

一方、家康の直属「伊賀者」として組織化された集団は、徳川への帰属意識を持っていた。同じ「伊賀出身」でも、豊臣系と徳川系の伊賀者が関ヶ原で別れる形になった。

2. 東軍の伊賀者――藤堂高虎の選択

関ヶ原における伊賀衆の最大勢力は、藤堂高虎の麾下にあった。

高虎は秀長の死後(1591年)、秀吉に直属したが、秀吉没後は家康への接近を選んだ。関ヶ原では東軍に参加し、伊賀・伊勢の兵を率いて戦った。

高虎という「情報将校」

藤堂高虎が関ヶ原前後に果たした情報的役割は大きい。高虎は豊臣政権内の有力武将として西軍側の動向を詳細に把握しており、その情報を家康に提供していたとみられる。関ヶ原前に家康が西軍の内部状況をほぼ正確に把握していたとすれば、高虎経由の情報が一翼を担っていた可能性が高い。

3. 甲賀衆の「中立」という選択

甲賀衆の多くは関ヶ原において明確な東西いずれかへの参加を避けた。

地元・近江の安全を優先した現実的判断、三成への反発、東軍勝利の予測——複数の動機が絡み合った「中立」だったとみられる。

甲賀衆と三成の関係

三成が近江長浜出身であるにもかかわらず、甲賀衆が三成を熱心に支持しなかった背景には、三成の「官僚的管理」への反発があったとも言われる。秀吉政権下での検地・兵農分離によって自律性を制限された甲賀の地侍たちにとって、三成はその象徴的存在だった。

4. 関ヶ原後の忍び衆の再編

東軍勝利後、伊賀・甲賀の忍び衆は急速に徳川体制への組み込みを進めた。

「忠誠の証明」競争

関ヶ原後、各地の大名・地侍は徳川への忠誠を証明しようと競った。伊賀・甲賀の忍び衆も同様で、東軍に参加した者は報奨を受け、中立・西軍参加者は立場の弁明を迫られた。

幕府「伊賀者」「甲賀者」への統合

江戸幕府の成立(1603年)以降、伊賀者・甲賀者は幕府の公式組織として制度化された。関ヶ原での功績・忠誠度に基づいて知行が配分され、徳川体制に完全に組み込まれた(→ 江戸幕府と忍者制度化)。

まとめ

関ヶ原は忍び衆にとって「どちらにつくか」という究極の選択を迫った戦いだった。戦国を通じて自律的な集団として存在してきた伊賀・甲賀の忍びたちが、この戦いを境に「幕府の組織」へと完全に統合されていく。

関ヶ原は日本の忍者史における「自律の終わり」を告げた戦場でもあった。

関連記事:

関連記事

TOP
error: Content is protected !!