前回の記事では、藤堂高虎が慶長13年(1608年)に伊賀の領主となるまでの生涯を追いました。今回は、高虎が伊賀に入った後、実際に忍者をどのように組織し、どんな任務を与えたのかを見ていきます。
戦国時代、伊賀の忍びたちは金銭契約で動く傭兵でした。敵味方を問わず雇われ、複数の大名に同時に仕えることすらある、完全に独立した存在だったのです。その伊賀衆が、藤堂高虎のもとで「藩士」へと変わっていく――これは忍者の歴史における、静かだが決定的な転換点でした。
高虎が最初に行ったこと
慶長13年(1608年)に伊賀上野城へ入城した高虎が直面したのは、一筋縄ではいかない土地でした。天正伊賀の乱(1581年)で壊滅的な打撃を受け、その後も筒井氏の支配下で抑圧されてきた伊賀衆は、外からの支配に対して根強い反発を持っていました。
高虎のアプローチは前任者と異なりました。力による制圧ではなく、地元の人材を積極的に登用することを選んだのです。伊賀上野城代には、伊賀忍者の旧家・服部氏の一族を任じたとも伝わります。伊賀の地を知り、伊賀の人脈を持つ者を要職に置くことで、支配の正統性を地元から調達しようとした判断でした。
「忍び衆」の誕生――慶長19年の登用
高虎が伊賀者を組織として整備した記録として、慶長19年(1614年)の動きが注目されます。この年、高虎は伊賀の郷士10名を「忍び衆」として正式に登用し、伊賀上野城下に屋敷を与えました。現在も「忍町(しのびちょう)」という地名として残るその場所が、藤堂藩における忍者組織の原点です。
慶長19年という年付きが示唆に富んでいます。翌慶長20年(1615年)は大坂夏の陣です。豊臣方との最終決戦を前にした時期に、高虎は忍び衆を組織として固めた。戦時の情報戦・諜報活動を見据えた整備だったと考えられます。
実際、高虎はこの時期、「下人」を間諜活動に使っていたとも記録に残っています。忍び衆という正規組織と、さらに非公式の情報網を二重に持つ――高虎の情報に対する意識の高さがうかがえます。
「忍び衆」から「伊賀者」へ――名称変更の意味
高虎の死後、正保2年(1645年)に「忍び衆」は「伊賀者」へと改称されます。人数は20名に増えました。
「忍び衆」という名称が「聞こえが悪い」という理由での改称だったと伝わります。これは単なる言葉遊びではありません。江戸時代の平和な社会において、「忍び」という言葉の持つ「暗躍・諜報・闇」のイメージが、藩の公的な組織にはそぐわないと判断されたのです。
名前を変えることで、忍者は「戦国の影」から「江戸の公務員」へと再定義されました。その実態は変わりつつも、制度の中に組み込まれることで生き残った――これが藤堂藩における忍者の姿です。
平時と非常時、二つの顔
では実際に「伊賀者」はどんな仕事をしていたのでしょうか。藩の史料から浮かび上がる任務は、大きく二つに分かれます。
平時の職務として確認されているのは、伊賀上野城・津城の警備、江戸藩邸の玄関警備、参勤交代への随行、御門の出入り管理(人数・荷物・時間の記録)などです。天保12年(1841年)の史料「裏御門御家中出入控」には、伊賀者が当番制で交代しながら門番を務めた記録が残っています。通常の藩士と同様に年複数回の給分を受けており、制度上は正規の藩士として扱われていました。
非常時の職務はより忍者らしい内容です。寛政9年(1797年)に伊勢で一揆が起きた際には、伊賀から伊勢へ情報収集に向かった伊賀者の業務記録が残っています。上司からの指示を受け、丹念に報告を重ねる――藩という組織の中で動く情報収集員の姿がそこにあります。
さらに時代が下った安政5年(1858年)には、神奈川沖でのロシア船探索を命じられた記録も残っています。幕末の黒船時代にまで、伊賀者は情報収集の最前線に立ち続けました。
また、史料からは「火術」を重視していたことも明らかになっています。伊賀者同士で忍術を伝授し合い、その際に『万川集海』が使われていた記録も確認されています。『万川集海』が、藤堂藩の伊賀者の現場で実際に参照されていた――この事実は、伊賀という土地における忍術伝承の連続性を示しています。
[→ 万川集海とは何か:忍術書の実像を解説する記事へ]
禄高と人数――組織の実態
藤堂藩の伊賀者の規模を数字で見ると、その実態が見えてきます。
人数は最大24名、通常は10〜20名ほど。「忍者の本場」を領する藩としては少ないように感じるかもしれません。しかしこれは「伊賀者」という正規の役職名を持つ者の数であり、伊賀国内には「無足人(むそくにん)」と呼ばれる半農半士の郷士が別途存在しました。寛保元年(1741年)の記録では1,900名余り、天明3年(1783年)でも1,200名余りが確認されています。苗字帯刀は許されるが俸禄のない彼らは、有事の際の軍役を担う予備的な存在として、藩の支配体制の中に組み込まれていました。
禄高については、寛保2年(1742年)の「分限帳」に記録が残っています。当時15家の伊賀者のうち、最高が貝野九左衛門の43俵5人扶持、最低は30俵3人扶持。決して豊かではない、下級藩士の処遇でした。
伊賀者の家は基本的に固定化されず、代が変わることが常態でしたが、貝野家など幕末まで世襲を維持した家もわずかに存在します。木津家の文書には5代目が提出した「忍術伝授起請文」が残っており、伊賀者同士が忍術を継承し続けていた実態が確認できます。
傭兵から藩士へ――転換の歴史的意味
戦国時代の伊賀衆は、複数の大名に同時に雇われることもいとわない傭兵でした。金銭契約を超えた主従関係を持たない、完全に独立した集団だったのです。
それが慶長19年の「忍び衆」登用を起点として、特定の藩への帰属が固定されていきます。藩から俸禄を受け、藩の命令体系の中で動き、藩の業務記録に名前が残る。江戸時代を通じて、忍者は「影の存在」から「制度の中の存在」へと変わっていきました。
この変化をもたらした最初の設計者が、藤堂高虎でした。
関ヶ原での情報工作、伊賀入封後の地元人材登用、忍び衆の組織化――高虎の行動を並べると、この武将が単なる「転封の達人」ではなく、情報と人心を戦略的に扱うことに長けた人物だったことが見えてきます。
次回は、関ヶ原における藤堂高虎の情報戦と、忍びの暗躍について掘り下げます。
[→ 次の記事:関ヶ原と忍者――藤堂軍の情報戦]