慶長5年(1600年)9月15日。天下分け目の関ヶ原の戦いは、わずか数時間で決着がつきました。通説では西軍の「裏切り」が勝敗を分けたとされていますが、その「裏切り」は当日に突然起きたわけではありません。
戦場の霧が晴れる前から、すでに勝負の筋書きを描いていた男がいました。藤堂高虎です。
関ヶ原は「情報戦」で動いた
関ヶ原の戦いにおける高虎の役割は、戦場での武勇だけではありませんでした。むしろより重要だったのは、開戦前から積み上げていた調略工作でした。
高虎が目をつけたのは、かつて自分と同じ近江の土豪出身という縁でつながる武将たちです。脇坂安治・小川祐忠・朽木元綱・赤座直保――表向きは西軍に属していた彼らに対し、高虎は東軍への内応を事前に説得していました。
その成果は当日に現れます。西軍の大谷吉継の陣を守るべき脇坂ら四将が、戦いの途中で東軍へ寝返ったのです。これが大谷隊の崩壊を招き、小早川秀秋の寝返りを引き金として西軍全体の潰走へとつながりました。
戦後、脇坂安治は東軍への仲介に感謝して高虎へ名刀「貞秀の太刀」を贈っています。また高虎の仲介によって脇坂家の旧領が安堵されたことも史料に残っています。これが単なる戦場の混乱に乗じた「裏切り」ではなく、高虎が事前に設計した工作の結果であったことは明らかです。
「情報収集役」としての高虎
高虎の情報への関与は関ヶ原の前から始まっていました。
秀吉没後、伏見に居を構えた家康のもとへ、高虎は大坂の情報を継続的に送り続けていたとされています。家康が関ヶ原へ向けて準備を進める中、その情報基盤を支えていたのが高虎だったのです。家康が高虎を「情報収集の責任者」として位置づけていたとも伝わります。
さらに1599年(慶長4年)には、家康が高虎邸に宿泊した夜に石田三成の急襲を受けるという事件が起きています。高虎がこれを阻止したことで、家康との信頼関係はより一層深まりました。情報の提供者であり、かつ身を挺して守った武将――関ヶ原以前の高虎と家康の関係は、主従というより同志に近い性格のものでした。
忍びの技法と高虎の調略
ここで注目したいのは、高虎の調略工作の手法です。
近江の人脈を活用し、敵陣営の武将を内側から切り崩す。表の戦力と裏の工作を並行して進める。情報を集め、相手の意図を読み、人を動かす――これらは「忍び」の技法そのものとも言えます。
高虎自身が忍者を使ったという直接の記録はありません。しかし後に「下人を間諜活動に使っていた」と記録されるこの武将は、情報収集と人心工作を戦略の中核に置いていました。関ヶ原での調略工作は、その能力が最大規模で発揮された場面でした。
忍者研究の観点から見ると、戦国・江戸期における「諜報」は特定の人物だけが担うものではありませんでした。武将自身が調略の担い手となり、商人・僧侶・郷士など多様な人脈を情報網として使いこなす。高虎はまさにその実践者でした。
大坂の陣と伊賀者の出動
関ヶ原の勝利から15年後、高虎は再び戦場に立ちます。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、そして翌年の大坂夏の陣です。
この時期、高虎はすでに伊賀の領主として「忍び衆」を組織していました(慶長19年の登用)。大坂の陣において、伊賀者が間諜として活動した可能性は十分に考えられます。ただし具体的な記録は断片的であり、誇張を避けてその実態を見ると、伊賀者の主たる役割は武力支援と警固であったと見るのが妥当でしょう。
高虎自身は大坂夏の陣で河内方面の先鋒を自ら志願し、八尾において長宗我部盛親隊と激突しています。この戦いで高虎は一族の藤堂良勝をはじめ600名余りの死傷者を出す激戦を経験しました。「調略の人」として描かれがちな高虎が、最前線で血を流した武将でもあったことを示す記録です。
情報戦が変えた戦国の終わり方
関ヶ原の戦いを「情報戦」として読み直すと、いくつかの事実が見えてきます。
戦場での勝敗は、開戦当日よりも前の「根回し」と「調略」によって相当程度決まっていました。武力と情報は対立するものではなく、組み合わせて使うものでした。そしてその組み合わせを最も意識的に実践したのが、藤堂高虎という武将でした。
[→ 石山合戦の傭兵忍び:戦場で使われた忍びの具体的な工作の実像]
[→ 大名と忍者の関係:諸大名はいかに忍びを使ったか]
戦国が終わり、江戸の平和が訪れると、情報戦の舞台は戦場から藩政へと移ります。高虎が整備した忍び衆・伊賀者は、今度は藩の情報網として機能し続けました。その制度が幕末まで続いたことは、先の記事「藤堂高虎が組織した伊賀忍者――「忍び衆」から「伊賀者」へ、領主と忍びの主従関係」で見た通りです。
次回は、藤堂高虎が築いた伊賀上野城と、江戸時代の藤堂藩の支配体制の中で伊賀者がどのように変容していったかを詳しく見ていきます。
→ 次の記事:津城と伊賀者――江戸時代の藤堂家と忍者集団の実態