藤堂高虎

津城と伊賀者――江戸260年、藤堂家と忍者集団の変容

【連載】藤堂高虎と伊賀・忍びの再編 ― 再生と共生の物語

慶長13年(1608年)に伊賀・伊勢の領主となった藤堂高虎。前回の記事では、関ヶ原における情報戦と大坂の陣までを見てきました。今回は視点を変え、高虎が築いた支配体制が江戸時代を通じてどのように継承・変容し、最終的に幕末まで続いたかを追います。

忍者は江戸の平和な時代にどう生き残ったのか。そして「転封の達人」が作り上げた組織は、明治維新の激動の中でどう動いたのか――藤堂藩260年の歩みを、伊賀者という視点から読み解きます。


津城と伊賀上野城――二つの城が担った役割

高虎が伊賀・伊勢に入封した際、拠点となる城は二つありました。本城の津城(三重県津市)と、支城の伊賀上野城(三重県伊賀市)です。この二つの城の関係が、藤堂藩の支配構造を象徴しています。

津城は藩政の中枢でした。高虎は戦乱で荒廃していた津の町を大規模に整備し、伊勢街道の経路を変えて津を宿場町として発展させました。「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ」という伊勢音頭の一節は、この高虎の都市経営の成果から生まれたといわれています。

一方、伊賀上野城は軍事拠点としての性格が強い城でした。高虎は慶長16年(1611年)に本丸を拡張し、高さ約30メートルという当時日本一の高石垣を構築しました。五層の天守閣は建造中の慶長17年(1612年)に暴風雨で倒壊し、その後再建されることなく幕末まで存続しました。天守のない城でありながら、城郭としての機能を保ち続けたのです。

高虎は津を本城としたため、伊賀上野城には城代家老が置かれました。そしてその城下に「忍び衆」の屋敷が設けられ、「忍町(しのびちょう)」という地名が生まれました。現在も伊賀市に残るこの地名は、藤堂藩と忍者の関係を今に伝える生きた証です。

また高虎が伊賀上野城を築く際、伊賀忍者に命じて58ヶ国148城を密かに調査させ、その要害図を参考にしたとも伝わっています。築城の名手が忍者の諜報能力を城郭設計に活かした――これも高虎らしい情報の使い方でした。


「忍び衆」が担った江戸時代の役割

江戸時代に入り、戦乱が遠のくにつれて、忍び衆の任務は変化していきます。

高虎が慶長19年(1614年)に組織した忍び衆の当初の役割は、大坂の陣を前にした軍事・情報活動でした。しかし豊臣家が滅亡し、幕藩体制が安定するにつれ、彼らの仕事は平時の業務へと移行していきます。

史料から確認できる江戸時代の伊賀者の主な任務は、津城・伊賀上野城の警備、江戸藩邸の玄関警備、参勤交代への随行、藩内の情報探索、そして御門の出入り管理でした。当番制で交代しながら勤務し、年複数回の給分を受ける――通常の藩士とほぼ変わらない勤務形態です。

しかし非常時には、その本領が発揮されました。寛政9年(1797年)に伊勢で一揆が起きた際には、情報収集のために伊賀者が現地へ派遣されています。上司の指示を受け、丹念に報告を重ねる「情報収集の専門家」としての役割は、江戸中期にも健在でした。

さらに時代が下ると、安政5年(1858年)には神奈川沖でのロシア船探索を命じられた記録が残っています。伊賀者の澤村保祐が黒船に乗船し、情報を持ち帰った記録も史料に残っています。忍者の末裔が幕末の開国の現場に立ち会っていたのです。


無足人――もう一つの「忍びの末裔」

藤堂藩の伊賀支配を語る上で、「無足人(むそくにん)」という存在を外すことはできません。

無足人とは、苗字帯刀を許されながら俸禄のない、半農半士の郷士層です。普段は村に住んで農業に従事しつつ、有事の際には軍役を担う存在でした。寛保元年(1741年)の記録では1,900名余り、天明3年(1783年)でも1,200名余りが確認されており、正規の伊賀者(最大24名)をはるかに上回る規模の組織でした。

伊賀国内670ヶ所に屋敷跡が確認されているこの無足人こそ、戦国時代の伊賀衆の末裔たちが最も多く行き着いた姿でした。忍者の技と誇りを持ちながら、藩の統治体制の中に組み込まれ、「武士でも農民でもない」中間的な存在として江戸時代を生き抜いたのです。

この無足人制度は、江戸時代を通じて維持され、幕末の動乱期には実際の戦力として機能しました。高虎が設計した「伊賀衆を制度の中に取り込む」という構想が、260年にわたって機能し続けた証です。


幕末の「転封」――藩祖の血が再び動く

慶長13年(1608年)の入封以来、藤堂家は幕末まで一度も改易・転封されることなく、伊賀・伊勢を治め続けました。外様大名でありながらこれほど安定した支配を続けた藩は珍しく、高虎が家康に築いた信頼の深さを物語っています。

その藤堂藩が、幕末の鳥羽・伏見の戦い(慶応4年・1868年)において、劇的な行動をとります。旧幕府軍として戦場に出陣した直後、突如として新政府軍(官軍)へ寝返り、旧幕府方に砲撃を加えたのです。

この「裏切り」により、数で劣る新政府軍の勝利が決定的になったとも言われています。旧幕府軍からは激しく憎まれましたが、藤堂藩は明治新政府の下で生き残り、戊辰戦争の戦功として賞典禄を受けました。

「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」――藩祖・高虎の言葉が思い起こされます。転封を重ねながら実力で生き残った高虎の判断哲学が、260年の時を経て子孫の行動に重なりました。


高虎が残したもの、現在に続くもの

寛永7年(1630年)に没した藤堂高虎が伊賀に残したものは、城と城下町だけではありませんでした。戦国の傭兵忍者を藩の組織に取り込み、「忍び衆」「伊賀者」「無足人」という三層の体制として制度化した。この枠組みが江戸260年を支え、幕末の動乱まで機能し続けました。

現在の伊賀市に残る「忍町」という地名、伊賀上野城の高石垣、そして全国屈指の忍者文化の集積――これらはすべて、高虎が設計した支配体制の痕跡です。

忍者は消えたのではありません。藤堂高虎という武将の手によって、制度の中に生き続けたのです。

→ 前の記事:関ヶ原と藤堂高虎の情報戦――戦場の外で勝負は決まっていた
→ 次の記事:藤堂高虎と忍者――大河ドラマが描かなかった歴史の真実(シリーズ総括)]
伊賀衆・甲賀衆の実像:戦国から江戸への忍者の変容を詳しく見る

関連記事

TOP
error: Content is protected !!